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【差替待機】平等と幸せはマッチしない
お話を聞いてみましょう。
- 4分45秒
残念ながら「平等」であれば「幸せ」ということはありません。
みんなが同じだけの才能で同じ給料をもらい同じくらい素晴らしい家を持ち、飲み物も食べ物も同等貰えるとして、幸せですか?
少し前まで、「ブータン」という国は幸せの国でした。「幸せですか?」と聞かれてほとんどの人が「幸せです」と答えていました。
しかし、そんな国が今では、幸せの国ではなくなってきているのです。その原因として挙がるのが「スマホ」です。スマホが普及するのと比例するように不幸だと感じる人が増えました。ブータンの人々がSNSをはじめることで、自分たちよりもずっといい暮らし、体験をしている外国の人々が見えてきます。そして幸福度が下がったのです。
精神科医のアンダース・ハンセン氏や他のあらゆる学者が言うように、「人間は差異に幸福を感じるようにプログラムされている」のです。もちろん、差異に幸福を感じるといっても、自分が他人より優れている場合の差異に限っての話です。
そして、平等を実現するとしても、遺伝子レベルで改善しなくてはならないかもしれません。それは、遺伝子操作をして、他人と平等でも不快だと感じないようにするなど……。人間含め生命は後世に遺伝子を残そうとします。種(しゅ)単位で生き残るには、さまざまな戦略が必要です。なので、他人より優れようとする気持ちがあり、人それぞれ性格や行動が違うのです。
平等よりも差異があることのほうが幸せに感じてしまうのは、本能なのです。相手より下という差異は不快感を伴い不幸に感じます。かといって、平等でも喜びは生まれないのです。
この本能は、あらゆる問題の根本原因だと思います。
戦争が始まる理由、貧富の差の拡大、幸せと不幸……は、「差異に幸福を感じる本能」が発端なのではないでしょうか?
そして、仮に、平等に不満を持たなくすることができて、みんなが平等になれば、向上心は喪失するかもしれません。
なぜ、藤原道長が望月の歌で「この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている」などと満足げに言ったのでしょうか?その時代の誰よりも全てを持っていたからではないでしょうか?
しかし、今日における私たちの誰一人よりも、藤原道長は不便な世の中で暮らし何も持たされていません。藤原道長は、夏の暑い日はクーラーがなく、トイレも水洗トイレではなく、爽快なシャンプーやボディソープもなく、病気をしても何の病気なのか分からず死んでいく、などと暮らしていて不快なことや不便なことはそれなりにあったと思います。
けれど、その時代では道長以上の暮らしをしている者がいなかったのです。自分より豊かな相手がいなかったからこそ幸せだったのです。
最初に戻りますが、「みんなが同じだけの才能で同じ給料をもらい同じくらい素晴らしい家を持ち、飲み物も食べ物も同等貰えるとして、幸せですか?」ということです。他人との差異がなければ、物質的に豊かでも幸せに感じないのです。